僕にとっての、"おんがく"。

このところ、それを時折考えているのだけど、最近になってどうも僕が求めている"おんがく"は哲学的・自己探求的な営みの要素を強く持っているんじゃないかと思えてきた。






僕が求めている"おんがく"とは、「そこにある個人個人がそこにおける営みを通じて、常に自らに帰ってくる何らかの問いを内包した"おんがく"」。その直接の対象は、例えば歌なら旋律の美しさや純粋な音楽的表現への愛情でも、詩や曲想などによってそこに表現される意味・世界への探求でもいい。それらがそこに集う個々によってある程度異なってくるのは当然のことだと思うし、むしろそれでいいと思う。ただ、それをまずは個々できちんと探求していくこと、意識的にせよ無意識的にせよその結果として自らを問うてゆく自己探求の営みが行われることが、僕にとっての"おんがく"には必要なんじゃないだろうか。
その意味では、それは別に今やってる合唱のようなものじゃなくても何でもいい。むしろ単純にその個人的営みの面に目を向けるなら、僕は技術的にも性格的にも少なくとも合唱向きではないかもしれないとさえ思う。



ただ、個人個人が同じ"うた"を対象として個々のその営みを同じ軸の中においてそれぞれで行っていく中で、一瞬それぞれのその営みが交わる瞬間というものが出てくる。その瞬間はきっと圧倒的な和音の美しさや全体の音の調和、あるいは得も言われぬ一体感のような感覚として表象されてくるようなものだと思うのだけど、この瞬間にこそそれぞれ個々の営みの範疇を超えた、共通の意義やあるいは"よさ"のようなものがあるのではないだろうか。それこそが、"おんがく"なんじゃないだろうか。
その意味において、別に固定化された合唱観がすきな訳じゃないケド、自らの声を媒介とし、かつ人数的編成の自由度と各パートという編成の制約の強い合唱というものに自分は惹かれているんじゃないだろうか。・・・まぁこの最後のやつはどう考えても後付けの理由くさいけどwww





そう考えてみると、僕が中高のコーラス部を離れられなかった理由も、逆にいまの隊に未だ少し戸惑いを覚えていることも説明できるような気がする。どれだけ個々の中でその営み、・・・"おんがく"をあいせているか、がその違いなのかな。もちろん両者の環境は大きく異なる他、多くのツッコミどころがある。何よりあまりに主観的ゆえにあくまで自己理解の範疇から出すことはできないことは承知の上、だけどさ。






とりあえず、この一週間くらいでこんなことを考えてた。我ながらこんなことよくやるな(苦笑



さて、ではほんとうに僕にとっての"おんがく"とは。